
昨日は寒かった。気温的には岩手に行ったときの方が全然寒いんだけど、昨日の関東の寒さは厳しかった。なぜだろう。そんなことを考えながらコーヒー飲んでいる朝です。
今日はスピノザの『エチカ』第四部 定理45系2備考を残しておこうと思います。
その時に自分で楽しいなと思うことを適度に楽しんで行こうぜ!!なぜならYO!!って感じだよね。しかも飽きるまでやるなっていう。そりゃそうなんだけど、飽きるまでやるなって書くスピノザがいいよね。賢者だね。それじゃ引用です。
嘲弄(系1で言ったようにそれは悪である)と笑いとの間に私は大きな差異を認める。なぜなら、笑いは諧謔と同様に純然たる喜びであり、したがって過度になりさえしなければそれ自体では善である(この部の定理41により)。実際、楽しむことを禁ずるもの は厭世的で悲しげな迷信のみである。いったい憂鬱を追い払うことはなんで飢渇をいやすことよりも不適当であろうか。私の原則は次のごとくであって私はこの信念を固くとる者である。すなわちいかなる神霊も、またねたみ屋以外のいかなる人間も、私の無能力や苦悩を喜びはしないし、また落涙、すすり泣き、恐怖、その他精神の無能力の標識であるこの種の事柄を我々の徳に数えはしない。むしろ反対に、我々はより大なる喜びに刺激されるに従ってそれだけ大なる完全性に移行するのである。言いかえれば我々はそれだけ多くの神の本性を必然的に分有するのである。だからもろもろの物を利用してそれをできる限り楽しむ(と言っても飽きるまでではない、なぜなら飽きることは楽しむことでないから)ことは賢者にふさわしい。たしかに、ほどよくとられた味のよい食物および飲料によって、さらにまた芳香、緑なす植物の快い美、装飾、音楽、運動競技、演劇、そのほか他人を害することなしに各人の利用しうるこの種の事柄によって、自らを爽快にし元気づけることは、賢者にふさわしいのである。なぜなら、人間身体は本性を異にするきわめて多くの部分から組織されており、そしてそれらの部分は、全身がその本性から生じうる一切に対して等しく有能であるために、したがってまた精神が多くのものを同時に認識するのに等しく有能であるために、種々の新しい栄養をたえず必要とするからである。こうしてこの生活法は我々の原則とも、また一般の実行ともきわめてよく一致する。ゆえにもし最上の生活法、すべての点において推奨されるべき生活法なるものがあるとすれば、それはまさにこの生活法である。そしてこれについてはこれ以上明瞭にも詳細にも論ずる必要はない。