悲しみだとかについては控え目に

今朝はゴミを捨てに外にでたら強風で寒かった。おはようございます。今日も今日とてコーヒーが美味しいです。カフェインはやめないかもしれない。カフェインぐらいは続きたいかもしれない。そんな朝です。

今日も読書から残しておきたい部分を。下の引用は、他人に向かって言うのではなくて、自分の生き方というか在り方みたいなものを考えるに大事だなぁと思う。やっぱり喜びの多い生き方がいいなと思うし。あとなにかに書いてあったと思うけど、スピノザに下宿先の大家さんが既存宗教で「救われるか?」と聞いたらスピノザは「救われます」って言う人だったみたい。そういうのも良いよね。バカアホクソとは言わない。良い。

ということで、今朝も『スピノザ』アラン 米山 優訳の訳注から。p.114

スピノザの議論を借りながら、既存のキリスト教へのアランの批判がうかがえる箇所です。

「私たちは宗教によって毒されている。私たちは、教区司祭たちが人間の弱さや苦しみに目を光らせているのを見慣れている。瀕死の人間に対し他の人間を反省させるような説教の一撃でもっととどめを刺さんがためにである。葬儀屋のあの雄弁を私は憎む。説教をするなら、死についてではなくて、生についてやるべきだ。怖れを広めるのではなく希望を広めるべきだ。そして、いっしょになって、人間の宝ものである喜びをはぐくむべきだ。それは偉大な賢者たちの秘密であり、明日の光となろう。情念は悲しい。憎しみは悲しい。喜びは情念と憎しみとを除去するだろう。しかしまず私たち自身に言って聞かせることからはじめなければならない。悲しみは、けっして高尚でもなく、美しくもなく、有用でもない、と。」(中略)

そうであればこそ、「会話ということについてスピノザは忠告する。人間の隷属状態だとか、弱点だとか、悲しみだとかについては控え目に、反対に力だとか、喜びだとかについては、存分に話すがいい、と。」(中略)ともアランは書いたのです。

また、「宗教のもっぱらの過ちは、おそらく悲しみをはぐくんだことにある。人間の偉大さよりも人間のみじめさを強調し、人間に、自分はつまらないものだという感情を与え、この人生とは、たんなる通過にすぎず、苦しみは必要な手段であると繰り返すことによって、聖職者たちはこの世に、すべてものから味わいと美しさとを取り上げる悲しみのベールのようなものを覆いかぶせてしまった。人間を、その弱さの重圧のもとに打ちひしぐのは、キリスト教精神のなかにはなかったはずだ。しかし人生を暗いものにするのが、宗教の影響であることはしばしばである。宗教は人間を慰めるといわれる。しかし、慰められる必要のないようにするほうがいいではないか。」(中略)という言葉も重要でしょう。

要するに、司祭は自分の胸にぶらさがっている十字架を「他人に見せつけても自分は見ない」(中略)とアランはいうのです。(中略)そこでは、兵隊と同じように、秩序だけがめざされているのです。スピノザが「奴隷の国」にもあると示したような秩序だけが。「聖職者と兵卒は心底身内どうしである。それはあるがままの秩序の二種類の番人である」