
今日はお休み。珍しく8時頃まで寝てしまった。そこからのコーヒーもまた美味しい。
『スピノザ』アラン 米山 優訳にAmazonで出会ったので読み始めてるんだけど、これが面白い。訳注が面白い。そんな感じで今日はこの本の訳注で残しておきたいなと思ったところを。
この考え方だと例えば「なんでそんなことするの?まるで自虐的じゃん』みたいなこと、たとえば何のメリットもないのに権力者を応援しちゃったりとか。その「なんで?」ってのが「あーそういうことか…」って考えられるようになる。あとよくあるんだけど「あいつらは馬鹿とかアホ」って言いたくなるのにブレーキをかけてくれる。そんな気がする。
『スピノザ』アラン 米山 優訳 p.36より
たとえば、アランには次のような言葉があります。
「彼(スピノザ)こそ、どんな人間もそれ自身によって不死であり、どんな死も外的であると断じた唯一人の人である。なぜならば、彼によれば、生きている人のうちに、もしなんらか死の原理、それも生命自身による死の原理があるならば、その人はただの一瞬も生きてはいまいからである。だから、その人は外的な原因によってしか死にえないのであり、熱もまた砲弾と同じく彼にとって外的なのである。彼を消耗ないし破壊するものは、つねに外的なショックないし摩擦なのである。ここから人は、人間の極度のもろさと極度のかたさを、同じ一つの見方で把握することができる。」(アラン 『人間論』 原 亨吉訳 アラン著作集4 白水社 1980年 pp.303-304
次の引用も吟味してほしいと思います。
「<死>が不可避であるのも、決して<死>が存在する個物に内在しているからではない。却って、存在する個物が必然的に外部に向かって開かれているからであり、それが自らの存立基盤とする構成関係の部分に害を与えるおそれのある他の諸々の存在する個物に必然的に出会うからであり、固有の複合的構成関係のもとに或る個物に帰属している外延的諸部分が絶えず外部から規定され触発されるからなのである。」(福居 純 『スピノザ 『エチカ』の研究』 知泉書館 2002年 p.151 ドゥルーズのspinoza:Philosophie pratique,1981の論旨を書き記している部分です。)
「われわれが<悪>と呼ぶすべてのことは、まったく必然的であるが、しかし外部からやって来る。偶発的に具わる必然性である。死はどこまでも外部からやってくるだけに、尚更必然的なのである。現実の存在には或る平均的な持続の長さ(言うなら寿命)というものがある。ひとつの構成関係があれば、その具現には平均的な持続時間がある。しかし、当の具現は、何時なんどき、偶発的な出来事や外発的な変状によって中断されてしまわないともかぎらない。そのような死の必然性がわれわれに、死はわれわれに内在すると思いこませてしまうのである。しかし実際には、先にも述べた如く、そうした破壊ないし分解はそれ自体としてわれわれの構成関係にもわれわれの本質にもかかわっておらず、あくまでもわれわれの外延的な諸部分にかかわるにすぎないのである。それゆえ、逆に言えば、人間が自己の本性の必然性によって自らが存在しないように努力したり、或いは別の形相に変ずるように努力したりすることは、無から有が生ずるのと同様に、不可能なのである。」(同書 p.363 またスピノザ 『エチカ』 第四部定理20参照)