
今日は朝食のライ麦パンを買ってくるのを忘れていたりでイレギュラー的な感じになった。だけど数年ぶりというか十数年ぶりぐらいに玉子焼きを作った。そしてコーヒーを飲んでいる。
今日も読書で気になるところがあったので残しておこうと思います。
つい最近も「政権批判をしてはならない」みたいな禁止が飛び交ってたよね。そういうものって生から可能性を奪うことなのかもしれないね。それと服従しないやり方ってのも色々とあるかもしれないなぁと思う。そんなことを考えた朝です。
『ドゥルーズキーワード89増補新板』より
●力関係:アクティヴな力VS力を発揮することを妨げる力
力の定義としてドゥルーズが第一に主張すること、それは、力は決して単独で存在するのではなく、複数の力のあいだの関係、力関係によって規定されるということである。ドゥルーズが述べるように、力の本質は「力と力の関係」であり(NPh,96)、さらにいえば、力は力同士の「関係そのものを存在とする」のだ(F,132)。したがって、力を解釈するというときには必然的に、多元的に複数の力を考えなければならないということである(NPh,157f.. Cf.IT, 194f.)。また、力をこのように関係によって定義するならば、力の強弱関係によって、ものごとを決定する「より強い力」と、それに従う「より弱い力」という力の強さの「量的な差異」が規定され、それに応じて「力の質」、つまりリアクションを起こす「能動的な力」と、リアクションによって対処する「反動的な力」が生じてくる(NPh, 89f.)。注意する必要があるのは、「服従」することや、「中立」であることも、力の一つのかたちだということである。「中立」は力の観点からすると、中立ではなく、一つの力の行使なのだ(NPh, 91)。ドゥルーズにとって、「服従」する反動的な力の本質は、能動的な力からいくつもの可能性を奪い、それができることを制限する点にあるのだ(NPh, 119f., 136-9)。「禁欲主義的な理想」とニーチェはいったが、「してはならない」という禁止は、まさに「反動」の典型だろう。ドゥルーズの思想のライトモチーフは、生の活動を抑制する反動的な力を現象から兆候的に読み取り、それを破壊することで、反動的な力から能動的な力への「価値転倒」を実現することにある(NPh, 146)