圧政と抑圧の道具とならない。

今日という日よオハヨウゴザイマス。コーヒーを飲みながら。

これを完璧に実践できるとしたら悟りに至ってるよなぁと思いつつも、たしかになぁと思うこともあったので残しておく。

悲しみを使われちゃうんだよね。悲しみを利用して支持を得たり、悲しみを利用して前衛を作り出したり。悲しみを利用して搾取したり。キリがない。だったら多少というか、せめて自ら悲しみにいかない。自ら進んで悲しまなくてもいいかもしれない。それはできるんじゃないかな。そんなことを思いました。

『スピノザ 実践の哲学』ドゥルーズ より

すべてのわるいことは、したがって、活動能力の減少(悲しみー憎悪)によって測られ、すべてのいいことは、その同じ力能の増大(喜びー愛)によって測られる。悲しみを基調とするいっさいの情念〔受動的感情〕に対して、スピノザが徹底して闘い、根本からそれを告発しているのもそのためであり、スピノザはこれによって、エピクロスからニーチェにいたる大いなる系譜にその名をつらねているのである。人間の内的本質を、その外発的な、わるい出会いの方にもとめるなどということは、恥ずかしいことだといわなければならない。なんであれ、悲しみをうちに含むいっさいのものは、圧政と抑圧の道具となる。悲しみをうちに含むいっさいのものは、わるいものとして、私たち自身の活動能力からこの私たちを切り離してしまうものとして、告発されなければならないのだ。自責の念〔良心の呵責〕や罪の意識ばかりではない。死について考えることばかりではない。希望でさえ、安堵でさえ、そこにはなにがしかの無力感が含まれているのである。