それぞれの仕方で

今日はお休み。これから遠出。その前にコーヒーを飲みながら。

引き続きスピノザなんだけど、読んでて「あーそういうことか!」とまたまた元気が出てくることがあったので書いておく。例えば、今朝は早めに起きて下記を読んでいた。で、昨日の洗い物がまだそのままだったので、自分が洗っておけば自分もパートナーも遠出も気分良くいけるんじゃないか。そんなことを考えると楽しくなってくる。これが能動なのかも。楽しいでしょ。

もちろん完全な能動はない。上の例だって、スピノザの影響、國分功一郎さんの影響、パートナーの影響とか、前の日の行動とか、日々の習慣とか色んな要素がもちろんあるんだけど。その中に自分の表現も入っているみたいな感じ。

それじゃ準備するかな。

『エチカ』第一部定理三六証明 より

存在するすべての物は神の本性あるいは本質を一定の仕方で表現する(定理二五の系により)。言いかえれば(定理三四により)存在するすべての物は神の能力を―――万物の原因である神の能力を一定の仕方で表現する。したがって(定理一六により)存在するすべての物からある結果が生起しなければならぬ。

『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』國分功一郎 より

ここでスピノザが用いている「表現する」という動詞は、「説明する」とも言い換えることができます。自然界に存在する一つひとつの物は、神の力を説明していると考えられるわけです。たとえば、神すなわち自然には、水のようなさらさらで透明な液体を作り出す力がある。あるいはまた、ものを考えて哲学という営みをもたらす人間のような存在を作り出す力もある。神すなわち自然には実に豊かな力があります。その中に存在している一つひとつが、それぞれの仕方で、「神にはこんなこともできるよ」「自然にはこんな力があるよ」と説明してくれている。そしてそのような万物を作り出した原因が神なのでした。すると、原因と結果の関係は、同時に、表現の関係でもあることになります。神という原因は、万物という結果において自らのちからを表現していることになります。

能動とは自らの力を表現すること

原因と結果の関係が表現の関係でもあるのならば、能動の意味も、我々が普段使っているそれとは異なってきます。ふつう能動と受動は、行為の方向、行為の矢印の向きで理解されています。行為の矢印が、私から外に向かっていれば能動であり、矢印が私に向かっていれば受動というわけです。

しかしスピノザはそのような単純な仕方ではこれらを定義しませんでした。スピノザは、私が行為の原因になっている時―――つまり、私の外や私の内で、私を原因にする何ごとかが起こる時―――、私は能動なのだと言いました。

先の原因/結果の概念を用いるならば、この定義は次のように言い換えられることになります。

私は自らの行為において自分の力を表現している時に能動である。それとは逆に、私の行為が私ではなく、他人の力をより多く表現している時、私は受動である。