
昼寝をしてしまった。なのでもうこんな時間。今日はパートナーが親とプチ旅行にでかけている。なので1人だ。1人だと普段できていることもできなくなることがある。とりあえずコーヒーを飲むことはできている。そういばなんか書いてあったなと思い出したので、本を開いてみた。書いてあった。残しておく。
ろくに家事もできなかった、しなかった私があなたと生活をするようになり、掃除洗濯に簡単な自炊までできるようになり、またそれを継続できているのはあなたのおかげです。あなたのおかげでできているが、少しずつ自分だけでもできるように…
そんな感じだろうな… 夕飯何食べようかな…
『エチカ』における能動と受動の概念はもうこれで十分に理解されたと思われるから、その説明の締め括りとして、それらの実際のあり方について考えておこう。ここまでの説明からも想像できることではないかと思われるが、能動性はあくまでも目指されるところであって、人間にとっては完全な能動性など存在しないことには注意しなければならない。完全に能動的な行為とは、行為者の力以外の何者をも表現していないような行為である。言うまでもなく、そのようなことは神にしかあり得ない。我々の行為はどれほど能動的であろうとも、どこかに自分以外の存在の力を含んでいる。人間には完全な能動性は望めない。
能動性と受動性もまた「程度gradus」において捉えなければならない。これは言い換えれば、どんなに受動的な行為であろうとも、どこかに能動性があるという意味でもある。完全に能動的な行為があり得ないのと同様、完全に受動的な行為もあり得ない。そもそも完全に受動的な存在があるとしたら、それはコナトゥスを完全に放棄した存在であるから、存在し続けることができない。父親への復讐心から軍隊に走った彼の行為が最もよく表現していたのは、確かに彼の父親の支配力であっただろう。しかし、彼が命令にしたがって身体を動かしている時、その行為は、各々の命令に従って身体を動かすことができるという彼自身の力をも同時に表現していたはずだ。
ほんのりとであろうとどんな行為にも見出されうる能動性は、人が能動的になるための手がかりになるに違いない。それを手がかりに、受動の度合いをできる限り少なくしていくことこそが能動性へと至る道にほかならない。