
『ひとはなぜ戦争をするのか』の解説で精神科医の斎藤環先生がなにか書いていたよなと思い出したので、あらためて読んでみた。残しておこうと思う。
文化は欲動を制限する
フロイトによれば、文化は欲動の発動自体を抑えるはたらきがあります。人間は欲動からは自由になれないが、文化を獲得することで、知性の力が強くなり、そうした欲動がコントロールされるようになっていくのです。その結果、攻撃の欲動は内面に向かうようになります。
文化の発展が人間の心に変化をもたらす例として、フロイトは、文化が発展した国では出生率が下がることを挙げます。これは端的に避妊をするということも含め、むきだしの欲動のままに子どもをつくるという軽率なことはしなくなる、ということでしょう。また、結婚に対する考え方の変化もあるでしょう。発展途上地域では、家族を持てるかどうかは死活問題です。若いうちに結婚し、子どもを産み、働き手を増やして家族でサバイバルしていくことが基本になる。しかし、文化が発展して社会保障が充実し、個人主義が進んでくると、結婚は必須ではなく選択の問題になってきます。また、結婚したとしても子どもを持つか持たないかは自明ではなく、やはり選択の問題になります。個人を尊重する文化が発展するほど、個人の行動には選択肢が増えてくるのです。
実際に日本の状況を見ても、若い世代の性的な欲動の水準は下がっているように見えます。ある意味で、日本の若い人たちは文化的、かつ平和的になりつつあるとも言えるでしょう。彼らが享受する文化が、それこそ二国間の対立のようなものを部分的に乗り越える力になっているとも思います。たとえば、嫌韓本が売れる一方で韓流ブームがある。中国は反日感情が強いと思われる一方で、中国のオタクたちは日本のアニメやゲームが大好きです。こうしたところでつながり合えるのは文化の力だと思います。
フロイトはまた、文化が発展すると、それが究極的には「心と体の全体の変化」をもたらすと述べています。かくして戦争への拒絶は、「体と心の奥底からわき上がって」くるようになります。フロイトが考える真の平和主義者とは、文化の発展を受け容れた結果、生理的レベルで戦争を拒否するようになった人間のことです。たしかにこうした人間が多数派になれば、戦争は終わるのかもしれません。だからこそこの書簡は、フロイトの力強い宣言でしめくくられています。
「文化の発展を促せば、戦争の終焉へ向けて歩み出すことができる!」と。
これを単なる楽観論と笑い飛ばすのは容易ですが、それはあまり文化的な態度とは呼べないでしょう。ここからは完全に私の見解ですが、文化とは文明は異なり(フロイトはこうした区別には否定的でしたが)、人間の価値観を規定するものです。逆に、価値観を文化として洗練していけば、あらゆる価値の起源として「生きてそこに存在する個人」にゆきあたるはずです。つまり文化の目的とは、常に個人主義の擁護なのです。そうなると、いかなる場合にも優先されるべき価値として、個人の「自由」「権利」「尊厳」が必然的に導かれてくるでしょう。
これをフロイトの所説に結びつけるなら、文化の発展を享受した平和主義者とは、心のみならず身体のレベルで個人主義を体現した存在、ということになります。言うまでもなく「戦争」は、そのあらゆる局面において、「個人」の自由、権利、尊厳を犠牲にせずにはおきません。平和主義者(=個人主義者)が、戦争を生理的レベルで嫌悪し拒絶するのは当然のことなのです。
こうした意味での平和主義が日本に広がるには、まだしばらく時間はかかりそうです。しかし嘆く必要はありません。私たちは世界史レベルで見ても最高度に文化的な平和憲法を戴いているからです。そこにはフロイトすら思いもよらなかった戦争解決の手段、すなわち「戦争放棄」の文言が燦然と輝いています。この美しい憲法において先取りされた文化レベルにゆっくりと追いついていくことが、これからも私たちの課題であり続けるでしょう。