『享楽社会論』空想の横断

『享楽社会論』にレイシズムについて書かれていた気がしたので引っ張り出してきた。残しておく。私はいま朝シャワーから出てきてパンイチでこれを書いている。パンイチで享楽社会論をめくっている。夏の朝だ。

精神分析はレイシズムに対して何ができるのか

それでは、レイシズムの興隆に対して、精神分析は何ができるのだろうか。ひとつの答えは、60年代のラカンが分析の目標とした「空想(幻想)の横断」から得られるだろう。空想の横断とは、性関係のなさを覆い隠している空想を引き剥がし、欲動を丸裸にしてしまうことである。ジジェク(1993)はこの空想の横断をレイシズムに対する一種の処方箋として提出し、それに「否定的なもののもとに滞留すること tarrying with the negative」というヘーゲルから借用した名前を与えていた。それは、<他者>の不在という否定性から目を背けるのではなく、否定的なものをまざまざと見つめ、その場所に踏みとどまることを意味する。享楽がつねに不十分なものにとどまるのは、なんらかの<他者>によって享楽あ盗まれているためではなく、私たちの享楽の体制そのものに「性関係のなさ」が刻印されているからにほかならないことを知ること。それこそが、私たちをレイシズムから引き離すことを可能にする。

ただし、臨床実践としての精神分析にできることは、実のところほとんどないであろう。端的に言って、レイシストに対して「空想の横断」を目標とする精神分析を「治療」として提供することほど、ディストピアに近い政策はないからだ。

なんとなく想起するというか思い出すのは、千葉雅也先生の『勉強の哲学』だね。読んでない人はいますぐ読むべきだろう。読んだことある人も読み返すべきだろう。私も読み直してみよう。

そんなことを思う朝の出勤前のひととき。