躓き

休日の朝。掃除と洗い物と洗濯を片付けた。

今はコーヒーを飲みながら書いている。

彼女からの台湾旅行のお土産の中の1つ。現地の無印良品のコーヒーである。美味しい。美味しいんだけど、これは日本の無印良品では売っていないのだろうか?という疑問もある。言わないが。いや言えないのかもしれない。

この数か月間は鬱々としているというか悩んでいるといか、そんな状況は続いていた。心身ともに負荷も強かったんだろう。

そんなときは読書が進む。もともと遅いので速いとは言えないけれど。

他の趣味がないので、仕事で帰りが遅くなっても湯船につかりながら紙の本、ベッドの中で寝るまでkindle本、朝の電車の中でどちらか。みたいな感じ。

虐げられる者は幸いだ。読書が進むんだから。

多分、ある程度の責任や負荷がかかる仕事を辞めると、読書も進まなくなるような気がする。きっとそう。今までもそうだった。今後もそうだと思う。(自分に言い聞かせている)

で、昨日?一昨日?かな忘れたけど。印象に残ったところを引用しておく。

言い換えれば、私たちが読みづらいと感じるところ、躓くところにこそ、「新しい自己了解」の可能性が眠っている。誤解を恐れずに言えば、この意味で読者を躓かせるものこそ真理なのであり、逆にこの意味で人を躓かせないようなものは真理ではないのである。こう考えれば、聖書の読みづらさこそ、聖書の豊かさの証である。その読みづらさの一因は、聖書が至るところで​「​間」や「破れ」を残していることであった。しかし、そのことは、その著者たちも、パウロの言葉を借りれば、欠け多き「土の器」(二コリ四7)の人間なのであるから、当然のことである。もっと言えば、聖書そのものが欠け多く、扱いにくい「土の器」なのである。その​「​間」と「破れ」は、当事者たちが人間として払わなければならなかった労苦の証である。だからこそそれは、同じ「土の器」である読者一人一人を彼らとの共感へ、さらには「本文の前での新しい自己了解」へ招く力を持つのである。くりかえしになるが、これこそ聖書がキリスト教の「正典」として持っている意味と役割なのだと私は思っている。 聖書の前での「新しい自己了解」を求めて焦る必要はない。真の経験はつねに遅れてやってくるからである。そのためには、時が満ちなければならない。人それぞれの人生において、それがいつであるかはわからない。それを開かれた態度で待つ用意が大切である。なぜなら、遅れてやってくる真の経験は、誰の人生、誰のいのちにも備えられている普遍的な可能性だからである。というよりも、私たちのいのちとは、そもそもそういう構造になっているからである。

『聖書の読み方』 (岩波新書) 大貫 隆

「聖書」のところを「人生」とかにして読んでみたらハッとさせられた。

そんな感じです。