「神は破壊をもたらすことはお出来にならない。ただ創造することがお出来になるのみなのだ。神は罰することはされず、介入されるとしても、ただ助けを与えるためにのみであって、傷つけるためにではない。キリスト教の神は、抑制される神である。私たちに敵対する力を行使することは、断固として放棄され、たとえ私たちが神の助けを拒否したとしても、そのとき神は、私たちが自分自身を罰するのを涙を流しつつ見守られる以外のことはなさろうとされない。キリストにあっては、神ご自身は、無力にも人間の悪の手にかかって死を味われたのである。力の行使を放棄されることによって、神は、私たちが相互の上になす悪事を未然に防ぐことはお出来にならない。神はただ私たちと共に悲しむことしかお出来にならない。神は、ご自身のすべての知恵のうちにあって、ご自身を私たちに与えようとされるが、しかし神は、私たちが神と共にある歩みを選びとるようにと強制することは、決してされない。苦悩される神は、私たちがホロコーストにつぐホロコーストを経験するあいだも、私たちを待ち続けておられる。私たちは、この弱さにおいて支配される不可思議な神によって運命づけられているのだ。しかし、キリスト教の教えにとっての終局は、神はその弱さにおいて悪との戦いに勝利されるのだ、ということである。事実、戦いの勝利はすでにもたらされている。キリストの復活は、ただ単にキリストが二千年前に彼の時代の悪に打ち勝たれたということのみではなく、彼はすべての時代にとってそうされたのだ、ということを象徴している。無力にも十字架上に釘づけされたキリストこそ、神の究極的な武器なのだ。」
私もまたこのような神理解を、『現代聖書講座』(日本キリスト教団出版局)の第三巻の中の「苦難と救済」という論文の中で展開しているのですが、シィート先生はそれを読んでくださっていたのです。キリストの復活によってすでに勝利はもたらされている、と著者は最後に書いていますが、しかし無力にも十字架上に釘づけされたキリストこそが神の究極的な武器なのだ、と言われているのですから、キリストの復活という出来事もまた、神の無力、全能なる神の無力によってはじめて成り立っている出来事以外のものではない、ということを著者はしっかりと抑えています。
『十字架につけられ給ひしままなるキリスト』 青野太潮 204頁