色々と思うところや、疲れてしまったので有給休暇を取得して土日込みで9日間のお休みをいただいている。
なんとなく、キリスト教関連の本が読みたくなった。
たまたま目についた『苦しみの意味』という日本キリスト教団出版局から出ている本を読み始めた。普段は重たい話は避けてきたんだけれど、そうもいかないなと。
その中で「はっ!」とさせられた部分を残しておこうと思う。
ヨブの姿は人間に襲いかかる苦難と喪失の悲しみを象徴的に描いていますが、彼もまた生きる営みを獲得の視点で理解していました。「神は無垢な者も逆らう者も 同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。ちがうというなら、誰がそうしたのか」(ヨブ記9・22~24)。
このような議論があるのは、人間は苦難や悲しみが存在するこの世界を認識する能力において限界があることを示しています。この限界に気づいた者は受容できない出来事を「なぜ」と問う姿勢から、自分が苦難や喪失とどう向き合うかを真剣に考える姿勢へと転換します。自分が問う側ではなく、神の側から「あなたは、この事態をどう考え、どう受け止めるか」と問われていることに気づくからです。
寝ころびながら読んでいたけど、上の箇所で起き上がってしまった。
自分なりに苦しい思いや悲しい思いってのはそれなりにしてきたつもりだし、回心的な経験もあるつもりだったんだけど、このヨブ的な感じはずーっと抱えたままだった。「なんで?」と神でも如来でも仏でもなんでもいいんだけど、そういうものへ問うことが時々あった。
それが急に腑に落ちた。
いままでずーっとわからなかったことが急に腑に落ちるってことは人生時々あるし、珍しいことではないと思うんだけども。
神から急に問いかけられたようでビックリして起き上がっちゃった。
なんだかそんな自分に笑える。