自分の?他人の?

今日は休みだった。

家事以外にはなにしたかな…

Netflixで『プラットフォーム2』を見る以外はなにもしていないかもしれない。前回よりもわかりやすくなってるんじゃないかな?前回が資本主義で今回は社会主義っていうか共産主義的な感じかな。結局、人だから不完全すぎるから次の世代に託すしかないよねっていう。超絶ざっくりだとそんな感じに読めた。

そんなことはどうでもよくて。

映画とは全然関係なく、ふと思ったことを今日も書いておこうと思う。

人の怒り、人の悲しさと自分の怒り、自分の悲しさみたいなものってどこで線引きできるんだろう?そもそも線引きできるものなんだろうか?

そもそも線引きしてどうするんだろうか?

そんなことを考えた。

日常的なものであれば「あ、もらっちゃってたな」とかで済ませちゃっていいとは思うんだけど、生きてるとそうはいかないものもあると思うんだよね。

よく「自分の人生を生きよ」と言われるし、自分でもそう思うんだけど、じゃーどっからが自分なんだ?とも思うわけで。大体わかるもんだけども。ただ、それじゃ何か違うような気もするんだよね。

もちろん、世の中の怒りや悲しみを自分のものとして、なんてのは出来ないし、やる必要もないと思うんだけど、じゃー逆に、これは自分、それはアナタってできるかって言ったらできないわけじゃん。たとえ出来たとしても単純な葛藤からの逃避だよね。

あぁ… そうか… 葛藤せよってことか…

そんなことを考えました。