Ps→D D→Ps

『対象関係論を学ぶ』を読んでいてメモを残したくなったので。

1.迫害的な構えと抑うつ的構え

(中略)

「私たちは対人関係で二つの心理的態度のどちらかをいつでも採っている」と言い換えられましょう。それは、妄想-分裂態勢の経験からの不安を対象に投影してしまう「被害的-他罰的心性」と抑うつ態勢の経験からの不安を自己に内在しておく「現実受容的-他者肯定的心性」の二つです。

私たちはいくつになってもこの二つの心の構えの間を揺れ動くのですが、ビオンは心の構えのこの推移を、Ps→DとかD→Psと記号化しました。

PsはParanoid-Schizoidつまり「妄想-分裂的構え」、DはDepressiveつまり「抑うつ的構え」を表しています。内的対象関係から見てみますと、Psにおいては、自己や対象は断片化し、拡散(つまり、投影されたり)していますが、一方、Dにおいては、自己や対象はそれぞれに統合されています。

3.治療の中での二つの構えの揺れ

(中略)

思いやりを持った慈悲の心というのが、抑うつ的構えでの最も成熟した心的態勢なのかもしれません。まさに仏の心でしょうか。これが治療者の理想像として私たちに求められている姿なのかもしれません。しかしながら、私たちがクライエントに共感し続けていこうとする限りには、私たちは、ある意味では治療者としての機能不全と言える、迫害的構えをいつのまにか採ってしまっています。私たちは決して完璧な治療者ではありません。けれども、私たちがそうした被害的な心的態勢をなんとか立て直そうと努めていく過程やそのおりの私たちの真摯な態度そのものからクライエントが学んでいくものも少なくないでしょう。

私にとって間違いないことと思えるのは、私たちは完全無欠ですっかり成熟してしまった神や仏では決してないし、決してそうならないことです。しかし、それにしても、私たちと神の間を性急に縮めてしまおうとする人たちも多いようです。私たちの心の迫害的な構えを無視したり、あわてて取り払おうとすることや超越しようとすることよりも、それがあることを見つめることが私たちに本質的に意義深いものをもたらしてくれそうに私は思えます。